蓮沼執太による『課題曲』レビュー

2020.08.24

複数の自分がひとつの時間の中で踊る

——ダンス作戦会議『課題曲』( 曲:Miles Davis 「Black Satin」)

蓮沼執太(音楽家)

 

0:プレイ・マイルス

このテキストを読む前に、ぜひあなたもMiles Davis 「Black Satin」を一回聴いてみてほしい。YouTubeでも、Apple Musicでも、Spotifyでも、もちろんレコード盤『On the Corner』でも。


 

 

1・公演概要

2020年7月22日19時~、23日14時~、三鷹にあるSCOOLにおいて、ダンス作戦会議『課題曲』( 曲:Miles Davis 「Black Satin」) が2日にわたって行われた。出演は、Aokid、岡田智代、かえるP、神村恵、酒井直之、新宅一平、たくみちゃん、福留麻里、宮脇有紀、手塚夏子(映像参加)、西村未奈(映像参加)。大谷能生が課題曲として選曲した Miles Davis 「Black Satin」を、それぞれのダンサーが振り付け、踊るプログラム。大谷自身による課題曲の分析とレクチャーを織り交ぜた構成。「その場で音に即興的に反応するのでもなく、ダンス作品の中の「効果」として位置づけるのでもない、音楽とダンスの親密な関わり。」と公演パンフレットに記載されており、課題曲の音楽を分析していきながら、眼の前で繰り広げられる身体の動きも同時に解剖していくような公演である。

 

2・複数の秩序

上演前に大谷による「Black Satin」の簡単な解説シートが手元に配られ、かつ丁寧なレクチャーを元にここでも課題曲について解説をしていく。

 

課題曲「Black Satin」が収録されているアルバム『On the Corner』のプロデューサーはTeo Macero。1972年6月から7月にニューヨークで録音され、同年10月11日にコロンビア・レコードからリリースされた。Sly Stoneなどのファンク・ミュージックから、Karlheinz Stockhausenの現代音楽からの影響もあるとマイルス本人は語っている。いわゆるエレクトリック・マイルス期の作品であり、Chick CoreaやHerbie Hancock、タブラ奏者Badal Royまで錚々たるミュージシャンがマイルスの場に集うセッションとなった。それらの録音がTeo Maceroのテープ切り貼りによる編集作業、そしてリズム構成が反復構造になっていることもあり、クラブ・ミュージックの文脈としても捉えることが出来る楽曲である。

 

課題曲は3つのパートに分かれている。[Part1]はBPM約90で0:00~0:35。インドの打楽器タブラ、エレクトリック・チェロ、シタールなどで構成されている。タブラのみパターンが決まっており、その他の楽器はセッション演奏されたものだと推測できる。[Part2]はBPM約139で0:35~4:30。2台と思われるドラム、鈴、手拍子、メロディー、ベースで構成されている。途中から口笛、オルガン、タブラ、そしてワウ・トランペットなどが重なり、厚みを増していく。そして[Part3]は再び[Part1]のセッションテープにつながり、元に戻るような楽曲構造になっている。つまりイントロ~本編~アウトロ、という流れが出来た構成である。

 

大谷のレクチャーの中でとてもユニークな指摘があった。それは冒頭のタブラのパターンへの言及である。大谷の解説スコアを照らし合わせながら話を進めていくと、タブラのパターンはいわゆる拍の裏からタブラが入ってくるのだが、それはテープ編集によって生まれた効果であって、もともとはその裏で入ってくるタブラとのセッションは、一拍目の頭で演奏されていたのでは無いか、という指摘だった。大谷自身がコンピューター上で波形を並べて、メトロノームのクリック音に合わせて該当箇所の聴き比べを行なった検証方法はとてもユニークで、楽曲の解剖方法はいくつも存在するのだな、と会場にいたオーディエンスも気付いたに違いない。
大谷の指摘はまだ続く。[Part2]での異様な存在感がある「鈴」と「手拍子」の音。この2つは背景になっている演奏「ドラム、ベース、メロディー」とは明らかに違うセッションのダビングであり、過剰なエフェクト処理がされている。複数回にわたってセッション録音された素材がテープ編集によって、ひとつの楽曲の中に複数入り混じっている状況になっているのである。つまりこの鈴や手拍子は、元のセッションをあまり意識していない演奏になっており、ミステイクとも思えるようなラフな部分も存在する。この音が入っているのといないのとでは、この楽曲の印象が非常に変わるものであり、この存在感は時空が歪むような効果を作っている。丁寧さとラフさがミックスされた抜群のセンスを感じる。

テープ編集という行為により、違う時間と空間を共存させることを可能にし、そのいずれかの演奏に引っ張られずに最後まで距離を保ったまま音楽が終わっていくのである。またこのテープ編集によって作ることができる、音楽に複数の時間と空間を入れる効果は、タイムラインとしての楽曲構造の[Part1]~[Part3]の関係性にも同じように言える。1と3は同じ時間と空間によるセッションであるということは音から判別できるのだが、メインパートと言える[Part2]は1と3とは全然違う時間で録音されたセッションだということもわかる。複数の秩序を共存させていく行為とは、複数の世界を成立させていくことと等しい。それは録音という記録の手法によって成立するのである。リニアな時間軸で行われる身体表現において、複数の秩序がある楽曲をダンサーはどのように解釈していくのか、非常に興味深い課題曲の設定であった。

 

 

3・メモランダム

この楽曲で踊るのはとても困難なことだと僕は思う。楽曲構造の[Part1]~[Part3]は展開としては捉えやすい要素だが、ポピュラー音楽としてはエフェクトや電子音などの使用により抽象的であり、すでに述べたようにミュージック・コンクレートのようなサウンド・コラージュはStockhausen的(とは僕は思わないが)な現代音楽的側面もある。ドラムンベースや移民系のテクノミュージックの匂いを持ち、このコラージュ感覚はある意味でリミックス・ミュージックのようなクラブカルチャーとの接点も見出せる。故に、音楽に揺さぶられるように身体を動かすことは可能だとは思うが、どの要素をとっても高いアイデアと構造的な戦略が必要な課題曲だと思わざるをえなかった。

 

メモランダム的に公演の描写を行なっていく。コロナウイルス感染予防の対策として、一定時間ごとに換気が行われ、当日の公演アナウンスやレクチャー用のセッティングなども出演者たち自らが行うことによって、公演全体の雰囲気を均していく効果があった。Aokidが開演前に「ダンスを見る前に、ご自身の身体もほぐしてみてください。」とオーディエンスに促す行為も、言ってみれば、ダンスを見る行為も同じ時空間にいる存在すべてはダンスをしていることになる。僕も心身ともに解れた状態で公演にのぞむべきだと思う。自粛期間中、移動や接触が出来ない世界の中で生活していた。それを経て、いま身体表現に生で触れるということは、観る側の姿勢も大いに問われる。僕らだって以前と同じような姿勢で身体表現を観ることは出来ない。というよりも、むしろ新しい観劇方法を、観る側も探っていかねばならない。今回は映像配信無しでの上演だったわけだが、「客席」という大前提にあったものが縮小を余儀なくされた状況で、さらに配信上映に至ってはオーディエンスが不在というなかで作品発表が行われる。現在は、ダイナミックに上演や劇場について議論をするべくタイミングだと思う。反動的に脱空間へ向けて路上に出ていくことも可能だが、事故的に起こったこの状況下で現状の関係性を再設定する議論を、公共をはじめ、SCOOLのようなオルタナティヴな施設まで巻き込んで行うべきだと、Aokidの一声で僕はそれを思った。

 

観ていたポイントは[Part1]~[Part2]~[Part3]それぞれシームレスに音楽が変化するシーンの身体の動き。音楽のどの要素にダンサーは基点を作り、ダンスをしているのか。[Part1]と[Part3]は同じセッションでのテープコラージュのため構造が似ているので、その差異が生まれているか。

 

Aokidは、身体のループ、回転、捻れで構成されたセットだった。その捻れはサウンドエフェクトに呼応していた。重なりがなく、線的に動くリズムはダンスミュージックのグルーヴを作っていた。楽曲の展開に緩やかに合わせるように、旋律やリズムよりも、サウンドの質感に身体を重ねている印象を持った。動きとして、ブレイクダンスのようなアクロバティックな動きに目がいってしまうが、この質感に対して動きがシンクロしていく様子はとても面白かった。リズミカルな音楽へ、身体をチューニングしていくことに長けていながらも、音のテクスチャーという音楽の非グルーヴ的要素を捉えて、身体が反応していくプロセスはとても新進的に感じた。

 

福留麻里さんは僕の友人でもあり、コラボレーションも多数行なっているダンサーである。最初の展開で見せた身体を「クネクネ」と反復する動きの効果は、音楽の主体性を剥ぎ取り、身体的リズムに主体が移っていった。全体的に、音楽の要素を放棄しているように見えるのだが、メロディーの動きに対して動物的なフォームで音楽とシンクロすることによって、複数の世界を作っているように思えた。福留さんのダンスというのは、環境において自身の身体を並列的に捉えていき、少しだけズレをつけていくことだと思っている。今回の対象となる環境は「音楽」であり、音楽と身体を並列に考えて、少しだけ違和感をつけていくことで、世界に動きをつけていく。

 

たくみちゃんは立ち位置についた途端にマスクを取った。表情が動き始める。表情という狭いフレームに集中していく。リズムの変化に合わせて、展開に合わせて、ズレが無い動き。聞こえてくる音情報に身体が呼応するように思えた。トランペットのメロディーに引き寄せられるように表情が動く。足が地面に張り付き、擦りながら動き、展開に合わせて身体が開放的になっていく。2小節ごとに左右の動きが変化していく振り付けも、音楽に対して真正面からこたえているように感じた。

 

宮脇有紀さんはダイナミクスが凝縮されたパフォーマンスだった。「Black Satin」冒頭のエフェクト音とタブラの一音目で登場した動きは、細かいリズムに対して高い精度を持つ動きで対応していくように感じた。手と口の動きはマイルスのメロディーの強弱を感じられ、壁との接触や右手の強振は楽曲後半の複数の音の重なりを感じることができた。音楽が再生される時間のはじめから終わりまで身体がダイナミックに動くことで、音が終わったあとの無音部分も非常に豊かに感じた。

 

カエルPは白い服をまとっていた。目と口の開閉でウォーミングアップされ、身体をバウンスしながら重力に引っ張られていく。この曲の異様なミキシングで存在感を増している拍手に合わせて、足の動きが決められ、複数の層になっている音をひとつひとつ選んでいくように、音に合わせて動きを決めている印象を受けた。楽曲で一番盛り上がっている部分で登場する電子オルガンのハーモニーに合わせて、身体が壁にへばりつき、照明の明暗効果により、音楽が持っているエフェクティヴな要素を視覚化している試みに感じた。こちらも異様に音が大きい鈴の音に合わせて、手が動いて身体を反るフォームは、この音の異様さを表現しているように思う。何かを食べながら踊っていたように見えたのだが、何を食べていたのだろう?

 

西村未奈さんは現在、バーモント州にあるベニントン大学のMFAフェロー及び講師を務めるいるそうで映像での参加。自然豊かでスキーなどでも知られる州なので、どんな光景が広がるのかな、と思っていた。やはりスペースに余裕を感じる屋外でのパフォーマンスだった。カメラは1台。固定ではなく、手持ちで撮影したと思われる。音の出力は、おそらく撮影者がスピーカーなどの出力装置を持ちながら行われたのではないか。というのも、冒頭は建築物のバルコニーのような空間で、地面を這うように時間が動き始める。日差しが反射することにより、それがエフェクトとなり、偶然的に良い効果を生み出していた。ドラムのリズムに合わせるように展開されながらも、どこか東洋的な表情とフォームを感じさせた。それはマイルスの楽曲にインドの打楽器が導入されているように、様々なカルチャーの共存を示しているように思われた。非西洋的な雰囲気を感じながらも、音楽のリズム、アタック部分に力点を置いた振り付けは、僕にはむしろ西洋的に感じた。最後に草原に放たれて終わっていく演出はとても開放的だった。

 

同じく映像での出演になる手塚夏子さん。拠点であるベルリンで撮影された映像で、定点による固定カメラ1台、音の出力は空間のどこかにおかれたスピーカーをカメラのマイクが拾い録音されたもの。上半身アップから始まり、顔に複数の小さな丸いシールをはっている。[Part1]はカメラの遠くにおり、[Part2]はカメラの目の前になり表情のアップ、[Part3]は再び最初の位置に戻るような構成。その動きは、反リズムであり、トランペットの音の動きとエフェクティブな質感に合わせている印象で、一見かなり複雑なポイントに合わせて動いているように思うのだが、音楽パターンの繰り返しによって、フォームの展開がわかるようになると、とってもポップに見えてくる。その表情の動きは、手塚さん自身が動かしているとは思えず、音楽が手塚さんの表情を動かしているように、主体と客体のバランスが転換しているようで、秀逸に感じた。メディア・アーティストの真鍋大度さんの有名なプログラムで「音楽信号で顔の表情を動かす」という実践がある。顔に電極を取り付けて、音楽信号により表情が自分の意思とは関係なく動いていく映像作品(パフォーマンス作品でもある)。コンセプトは全く異なるが、映像作品として提示されたものとして批評するに、非常に近いものに感じた。

 

映像2作品を観た時に僕は感じてしまった。このマイルス「Black Satin」はとても映像的な手法で作られた音楽である。たくさんの編集が折り重なり、ギリギリの状態で音楽として捉えられるような形で存在している。また映像での出展は、リニアな時間軸で展開される身体表現とは全くことなるルールが存在するため、同じように扱うことは出来ないと感じた。映像表現における自由さ、そして制限の存在を踏まえた上で、身体を通して音楽を捉えることになる。この映像作品によって、さらに複雑な構造になっている「課題曲」公演は生半可な気持ちでは対峙できないと思い始めてきた。

 

酒井直之さんは着ていたTシャツを脱いだ。[Part1]では静かに座っており、徐々にゆっくりとした変化で立ち上がる。序盤はリズムとズレた動きではあるのだが、ゆっくりと脚の動きはメロディーのフレーズに呼応するかのようにシンクロしていった。音楽のリズムに合わさっていき、身体そのものがトランペットのエフェクトのように大きく動き、跳ね、転がる。[Part3]では履いていたスウェットのパンツをすべて下ろし、オーディエンスにお尻を向ける状態で終わった。着ていたものは、音楽が進むにつれて解放されるように無くなっていくプロセスは面白かったのだが、単純になぜそうなったのかの理由を知りたくなってしまった。楽曲構造に合わせて身体のシークエンスが組まれていたのかわからなかったが、静かな立ち上がりから動的なものに変わっていき、消滅を感じさせる展開は非常に明快だった。

 

新宅一平さん。様々な小道具を用意していた。「Black Sation」は5分20秒ある音楽だが、それと同等、またはそれ以上の時間をかけてセッティングを行なっていた。しかし、僕にはそれがセッティングには見えておらず、音楽がスタートする前の時間から身体表現がはじまっているとしか思えなかった。おもむろに袋から、鍋をとりだして水やそうめんを入れる、まな板の上に、赤い液体が入った大きな魚型の入れ物がシーソーのように動くようなオブジェクトがあったり、衣類収納袋の空気を抜く機材が足元にあったり、そのオブジェクト全てが新宅さんの身体を通して繋がれている。その環境が成り立つ過程が「セッティング」という形で提示される。そして音楽がかかる。手元で火を起こすようにのこぎりを動かす。息だったり、火だったり、水だったり、人間にとって根源的なエレメントをポップに表している。上演中、火を起こす、ということが、とても人間的な行為に見えてしまった。この点だけ、新宅さんは機械のように、つまり身体の主体性を拒否することで、それぞれのオブジェクトを繋げることが出来るのだと思うが「ダンス」をしてしまったように思えた。全体的に捉えても、とてもユニークなパフォーマンスだった。

 

小道具を片付ける出演者たち。新宅さんのパフォーマンスで鍋から溢れ出た水を拭き取り、小道具や壁に貼られた紙を剥がし、床に消毒液をかけながら雑巾がけをする。僕らは、ダンスを観る目になってしまったからには、そこで起こるすべてがダンスになってしまう。お客さんがトイレに行くために席を離れる仕草もダンスであり、神村恵さんが声を出してオーディエンスに何かを伝えていることもダンスになる。「課題曲」に向き合うというイベントなのに、規定外の要素がダンスとして立ち上がってくる。小道具を片付けるダンサーの身体がそう思わせた。

 

神村恵さんはアクティブエリアに細長いマットがひかれた。そのマットをひいたのは(確か)Aokidだった。ひろげた後にマットの埃が気になったのだろうか。丁寧にそれらを拭きとって、パフォーマンスへの準備を整えていた。もちろんこれもダンスだった。照明が暗転し、明るくなるとTシャツとデニム姿の神村さんはマットの奥の方に移動していた。[Part1]では両足が地面につき、腰は天井の突き刺すようにあげ、頭は床につきそうな姿勢で少しずつ前進をはじめる。[Part2]であぐらをかくような姿勢に変わり、序盤は大きくリズムを捉えているようにゆっくりと変化していく。細かい動きの変化ではないにしろ、次第に手の動きが大きくなり、音の重なりが複層的になると、身体全体でダイナミクスを作っていた。その動きはすべてはマット上の前後のみの動きで展開されていた。決して横には移動しなかった。その姿勢は、ストイックな制限を設けていたように感じた。

 

岡田智代さんによる「Black Satin」はとても音楽的に感じた。[Part1]では左右交互に回転する反復からスタート。非常に禁欲的なはじまりに感じた。[Part2]ではタブラのリズムがスタートしても静止した状態が続く。そしてマイルスのトランペットの入りを合図にして身体が動き出す。リズミカルなドラムは掴みやすいテンポではあるが、絶妙にリズムと身体がズラされているように動いていた。そのズレは、不調和ではなく、むしろ音楽とのハーモニーを感じた。照明の明暗の効果も印象的で、暗い状態での動きはシルエットを追うように抽象的な像が形を作っていき、時折見せる左右の回転が[Part1]との繋がりを感じさせる。明るい状態では、違和感とも言える大きな拍手の音にシンクロするような動きを見せ、とてもナラティヴな展開だった。最後は、シームレスに[Part3]へ移行し、ゆっくりと動きが変化していった。

 

4・おわりに

ダンサーが音楽に向き合うこと。それは「いま・ここ」で行われる事象であって、例えば「1週間前の自分を、いまここで現すこと」は出来ない。その上で、この楽曲を振り付けのためのBGMとして捉えるならば、それは異なる表現領域との密接な関わりとは言えない。ダンサーが音や音楽という領域にどこまで歩み寄り、自身の身体に落とし込んでいくのか、その11の方法を眼の前で観ていく行為は凄まじい情報量だった。映像参加による2名は時空間が異なってしまうのだが、全出演者が同じ音量で課題曲を再生していたということは、同じ空間、同じ課題曲という、ほとんど同じ条件のもと、それぞれのダンサーによるリフレインを僕たちは観ていくことになった。この構造自体が、とても面白い現象だったのだが、毎回同じ音楽が繰り返し聴くことで、すぐに飽きてしまうだろう、と最初は感じていたのだが、大谷能生による選曲は聴けば聴くほど、楽曲の様々な側面を分析的に引き出すような仕掛けがあり、まったく飽きなかった。むしろ飽きるどころか、音を発さないダンスの身体が視覚情報として楽曲に新たな刺激を与えており、聴く側の耳を毎回育ててくれるような感覚さえあった。つまり「Black Satin」というひとつの音楽はテープコラージュによりたくさんの時間と空間を入れることで、複数の秩序を作ることに成功している。ダンサーの身体の動きが、ライブというリニアな時間軸で僕たちの前に現前することにより、楽曲が持つ複数の過去が今現在と結びつくような状況を作っていた。それはMiles Davisが当時、世界の様々な国の音楽家とセッションしていく、というコンセプトを掲げ制作した、多くの他者が入り込む余白を持った音楽「Black Satin」だからこそ、身体と音楽の関係性をいくつも創出することができたのではないか、と感じた。選曲した大谷能生がどこまで考えていたのかはわからないが、生の身体の動きが音に変わることを可能にしたプログラムだった。

 

(テキスト:蓮沼執太 写真:金子愛帆)